資料 激震・関東大震災の現場から
           (町田市相原・根岸地区の現場から)    撮影 2006.4.15
  大正12(1923)年9月1日の関東全域、静岡、山梨にわたる地震の直後により起こった大災害。東京市、神奈川県、千葉県南部の被害が特にひどく全壊12万戸、全焼45万戸、死者、行方不明14万人に及んで、翌日成立の第2次山本内閣は戒厳令を施行、暴利取締令、支払猶予令を発し混乱収拾に着手したが、震災恐慌とよばれるような事態となり、震災手形割引損失償令を出して銀行資本の救済にあたったが、この震災手形の処理は長引き、昭和2年の金融恐慌の要因ともなった。他方朝鮮人や社会主義者が騒擾を起こすとのデマが流布され、多くの朝鮮人、社会主義者が不法逮捕され、また朝鮮人虐殺事件が勃発、さらに軍隊によって甘粕事件、亀戸事件などの虐殺事件が起こされた。
                 角川 日本史辞典 昭和41年12月発行より引用
 大惨事となった関東大震災は、年月とともに語り継ぐ人たちが少なくなってきました。隣町の相原・根岸地区では山崩れが発生、尊い命が奪われました。現在山崩れとなった場所は竹林で覆われて大きな窪地となっています。また押し流された大量の土砂は町田街道を越え水田をも押し潰してしまいました。こうした状況を根岸に住む中村さんが「明治・大正の頃の相原」」の中で書き残しました。また東京の震災の様子をつぶさに見ながら自転車で帰ってきた八木仁太郎翁もまた詳細な記録を残しました。
  関東大震災は風化の中にありますが、震災は何時起こるかわかりません。「相沢日記」当日分を含め三名が得た貴重な体験記をお読み戴き、今後の防災活動に活かされたらと願っております。

  
          ↑土砂の流出現場   山崩れの起きた現場      流出を免れたエノキ
 昭和の初期の頃の相原・根岸地区


尾根の頂から見た土砂の流出現場


堆積した土砂・現在は畑地


町田街道と2m上の高さとなった土砂の山


道路を越えた土砂現場
関東大震災について
              中相原  中村春芳
 田園の稲の穂に白い花が満開になって今年は季候もお天気もよいので豊作かもなどと大人たちは話していた。この付近のお祭りも大方終わって学校の夏休みも終わり今日は氏神様のお祭りで学校はお休み、朝から暑い。
 母さんはお祭りで一生懸命おまんじゅうづくりの支度をしたりして私はそばでかまどを出して並べたり薪を運んだりしてお手伝いをする。そんなことをしているうちお母さんはのし板にいっぱいおまんじゅうを作ってしまう。できたから今度はふかすのだよ。早くしてとお母さんが言っている時だった。
 急に家がガタガタ揺れて物が倒れたり棚から物がばたばたと落ちてきてお母さんが地震だすごい地震だと叫んでいた。そこへお父さんか来てそこはそのままにして早くクズ小屋に登っていろと叫んだので母さんと二人でクズ小屋に登ってゆれるのがおさまるのを待っていた。
 凄いなあと言っているうち又ゆれてきて今度はみりみりと言ったかと思ったら母屋の前の小屋がまるで座るように前の方にのめってつぶれてしまった。そのことに気をとられているうち地うなりのようなゴーと言う凄い音がしたので東の方を見ると赤い土ほこりが空に広がって根岸中を覆うてしまいそうになった丁度その時、青山のおじさんが竹薮に行こうと声をかけてくれたので前の方の竹薮に一応避難した。
 そのうち四、五軒が集まって竹を切ってとにかく休む場所を作らなければとみんなで地震の合間をみて家からムシロやゴザを持って来てそれぞれ休む場所を造るその間くり返し地震が来るしお母さんと二人でふるえてしまう そうこうしている時「青山豊さんが山が崩れて埋まって見つからないのでみんなで出して探してくれ」と知らせがありお父さんはシャベルを持って早々に出て行って兄ちゃんは唐ぐわを持って後から出て行く。
 約1時間ぐらいして帰って来て豊さんは未だどこにいるのか判らないしおばさんと子供も土の中から掘り出されて亡くなったようだ。民さんのおばあさんもやっぱり掘り出されたが亡くなったと話していたと話す。豊さんの裏の山が四、五〇メートル位の幅で崩れて田圃の中まで押出して道路の所も山になってしまい通れないよと話す。お父さんは暗くなって帰って来て「だめだ」と言ったきりで後は何も言わなかった。
 夜になっても時々揺れる家からカヤを持ってきて吊るようにしたりして各々の家でも休む支度ができるその間、作ったまんじゅうを持って来てふかして夕食のかわりに食べるのだがあまりうまくはなかった。夜になって東の空が真っ赤になっているので驚いていたら隣のおじさんがあれは東京が火事で燃えているのが空にうつって赤いのだと話してくれた。次の夜も同じように赤く空にうつっていた。
 二十二軒の根岸部落では山崩れで二戸、その他二戸の被害と死亡者四名の被害がありその後片付けにも何日もかかったようだ。
 翌日の昼過ぎ朝鮮人があばれてこっちの方へも来るから警戒するようにとの連絡があり中相原では県境の二国橋でくいとめるように警戒しよう、根岸では新田橋での警戒しようと女も男も竹槍を持って身体をまもろうとあっちこっちに立って警戒した。もう橋本では何人もやられたとか二本松に朝鮮人が終結しているそうだとか、いろいろのデマ情報が入って来てしんけんな気持ちで竹槍をかまえていたがその日は無事に過ぎた。夜になって不寝番を交代でやるようになった。その夜も無事に済んだ。未だ東の空は真っ赤だった。
 三日目の昼ごろからどこの家の者も疲れが出てきて地震も大丈夫そうなので家にそろそろ引き揚げて様子を見ようと話し合い、引き揚げる事になる。家の中はいろいろな物が倒れたり落ちたりしていてすごいほこりで大掃除が大変だった。でも家に帰れて安心する。
 お父さんは山崩れで道路がなくなった所を木を切ったり土をよせたりする工事を部落の者と一緒に出て通行できよようにした。大正十二年九月一日午前十一時五十八分、思っても見なかった関東大地震、忘れる事はできないだろう。  「明治・大正の頃の相原」 相原保善会発行より

相澤菊太郎日記
 9月1日 晴 大震災記録
 在家、正午大震す、殆ど中食中にて余と栄子、松代、栄久、下女ハルは比大震にて裏庭へ飛出したり、震動急増見る間に土蔵の壁は全部落下し居宅は船の如く各所地割れを為す、猶震動不止三時頃は軽動となり一と先づ落付きたれども後難を恐れ皆竹薮に引越し野営の準備を為す、我家にては土蔵一ヶ所の壁を落とし、内は床の間木摺壁其他を落とし、東北屋敷周囲の石垣を破損し、湯場、物置等傾斜す、茂治は本家に居りで郵便局の始末を為し三時頃帰宅、比家の模様を語る、本家は吾家より一層甚敷く何でも大破損なり、然れども本家及余、新宅甲子男共潰家なきは仕合わせなりし、保雄は朝より農蚕学校へ行って居り丁度比時は校外に居りたりとて帰宅す。
 花子は朝一番列車にて八王子なる高女校へ行き正午前汽車に乗り帰途比大震に出会い直に下車徒歩学友と宇津貫を通り、花子は発病して浦辺余曾五郎君方へ一時休息し居ると云って回春堂の池田春子君外一名花子の傘と靴を持参してくれたり、依て栄久を宇津貫へ出張させる準備中花子は快方にて独り帰宅し一と安心せり、比夜我家一家は竹薮に露営す、金子島二郎家族も我が藪に来り露営し、南隣りの井上浅次郎家族も隣藪に露営、神田稲吉及び前の桶屋佐久間浅次郎両家族は我家所有川付竹薮の入口に居を定め露営す。
 全村共居宅は殻明(からあき)暗黒界となる、比日橋本の潰家は、文七物置一、古木喜市居宅、橋本嘉蔵土蔵、矢島茂重居宅、谷政晴土蔵、柚木助太郎借家、原の井上定吉物置一、松島力蔵居宅等にて、土蔵は全部壁を落とし、人家は我家の如きは其中の軽き分にて他はより以上の被害、殊に停車場の丸通倉庫石造り巾五間長さ十五間崩壊、夫より横町へ掛け本家方面より西側瑞光寺下を経て風間氏宅へ向かって大震路と見へ殊に大被害なりし。
 比夜余は武州坂下より以東を見に行く(月夜)両国橋添北道は潰裂し両方水堀を埋め、夫より新道の方は山の土塊流出し、又堺の新道は大破裂にて殆ど通行不能、仝谷戸の新之助方其の他潰倒、次に甚しきは三ツ目の嶋崎弥太郎君付近にて道路も通行不能に居宅、物置の潰倒七八に及ぶ、宝泉寺の庫裡も潰れたり、夫より東へ三嶽堂萩原半三氏付近大被害、又西は大戸及び根岸方面大被害人畜の死傷あり、比頃美枝子と澄代は本家へ行き居り比難も無事を得たり(倒潰建物追記十九日の分にあり) 

「関東大震災記録」 八木仁太郎翁の記録
(前略 東京から青梅・八王子を経由して川尻村へ) 大船通りを来たれば道に地われや暗渠の崩れて凹みたるところあり四五回自転車より飛び降りたり其の切通しは山崩れにて道塞がり自転車をきてやっと通りたり真米に出てたれば道路は地われ甚だしく中には七八尺位口をあいたる所あり二三尺位陥没したる所もあり自転車に乗る能はす倒壊したる家三軒あり堺川の橋の石垣は両方とも崩れて自転車を舁て僅かに通ることを得たり森下邊は余り損害なきやうなりし。
 原宿も損害少なきやうなり河内屋の前の堀に沿ひたる道路に井戸のやうなる大きな穴(道路の側の石垣落ちて径四尺もあらんか)あきて流れる水は皆流れ落ちて行衛を知らす其下の堀は水なし
 久保沢に入りたれば都代田は店の庇を落とされ脇の煉瓦塀を少し倒され本家にては煙突か煉瓦造なりしが倒れずしてぐづぐづとぶつぶれるやうに崩れて何にもいためず八木屋の煙突は傾斜して危険なる故綱を付けて引倒したりと我家にては瓦一枚も落ちず倉の壁を少し落とされ時計も店のは止らさりしと裏の断崖は千代本との境へ落ちて木戸を潰し瓦二三枚壊れたり畑久保は中々烈しく住宅は住むに堪えざるまでに破損したり前の庇は倒れ雪隠は土台石より一尺も西に寄り根太は皆落ちて囲炉裏際の処が少し落ちざるのみ流しの棚にありし四升釜は竈の側に転倒し居たりと其棚の下に水瓶ありたれと水瓶もいためず釜もいたまざりしと前の石垣は全部崩れたり畑久保も田重方のみ甚だしく他はさしたる被害なし田重方の土蔵は東南北の三方壁を震ひ落とし西側入口上の庇は前に倒れ駄板屋根はへこみて落ちんばかりに下りたる所あり古屋の八木三平方にては井戸崩れたりと八木隆太郎氏は二十余年前に其住宅を小倉の撚屋長谷川平兵衛殿へ売り屋敷は久しく空き地なりしか昨年小さな駄板屋敷の家を作り三平を住はせ井戸を新たに掘りたり昔から古屋には井戸なくして普門寺より竹樋にて引き用ひたりと田重方より八木伊之助方の前畠へかけて帯を張りたるやうに二間幅位に畑をうないたるやうにしたり畦は崩れて平らになり陸稲などは埋められたり倒れたりしたりと是を地震道をいふならんと語りあへり。

倒壊した普門寺の宝匡印塔
   撮影2006・4・16
 我墓地及ひ本家の石塔は全部転覆したり今度の地震には神社仏閣の灯籠や石卒表石碑等は大抵倒れたり八幡様川尻村社の石灯篭は三対共倒れ一ノ鳥居の笠木が片方落ちたり学校庭の表忠碑は前へ倒れ其周囲の花崗岩の柵は倒れたり傾きたりしたり普門寺の宝匡印塔は二ツとも倒壊したり。
 朝鮮人の騒ぎは久保沢も中々大騒ぎをしたりと云う二日午後大島にて半鐘を乱打する故それ火事よと消防隊はポンプを牽て大島へ馳付けたれと何処にも火事の様子はなくひっそりかんと静まり返って居るので狐に魅まれたるやうなりしが其うち一人の男走り来り朝鮮人三百人原町田を焼払って今比方へ向かって前進しつつあり当地にては婦女小児を皆小倉葉山へ避難せしめ血気の男のみにて警戒し居るなり久保沢もいづれ其鮮人に襲われへければ早く帰りて用意せらるべしと告げられしは皆愕て馳せ帰り女子供を避難せしめ青年団員軍人会員消防隊等にて徹宵要所を固め警護したりと我家にてはおまさ(三十)は粲(二男三才)を背負て小倉に逃れ道に志満殿(学校朋輩)に遇ひ輙ち請ひて其家に泊り夕食の馳走を受けたりと以前は湘南村小学校には高等科はなく川尻小学校へ通学したり(志満殿は草木兼太郎(仇名ぼく濱)の二女)兼は独り家を衛り蚕初齢種三枚蟻量三匁に給葉し時々半鐘の音に驚かされ電灯は点火せず三ヶ木の発電所破損し九月八日より送電したれと光力微弱辛して新聞を読む程なり一戸一戸灯つつ点火を許し二灯つけたる者は断線を断行すると会社より(富士水電株式会社なり元は相甲電気株式会社なりしか富士水電に買収せらる)触れ来り動力は供給せず搗屋は(八木屋・穴川・町屋・堺松等)一斉に休となり皆食料の米麦に困りたり九月十五日大雨出水の為め又三ヶ木発電所の水路破壊し復暗夜となる悽惨の気人に迫ると云う。
 消防隊が大島より帰来ると鮮人襲来の由を告げたれは皆周章狼狽一軒残らず表の戸を鎖して秋蚕のある者も皆固く鎖したり其故か不作の者多し老幼婦女を去らしめたりと八木やにてはおふで殿まさの父武三郎殿の後妻は池の沢に隠れみどりさんは久保のいり小松へ遁れ本家にては登殿葉は二月許病みて小松にて宮内省へ献上の稲を作るので知事や郡長などか来り式を行ふので其実況を撮影するとて八王子から写真師を頼みたれと時間に間に合わす登を頼みに来りたれは行きて撮影し其時悪性の感冒に罹り肺炎のやうにて久しく煩ひたりと母おふさ殿も其時肺炎にて大病みに病みたりといふ大きに快く地震の時初めて昼飯に二階から降りたるなりと其病人も鮮人騒ぎで慶太作代に負さって谷が原の大正寺から峰伝ひに塔のう様へ逃けて其所に夜を徹したれど病気には左程障害はなきやうなりしとおふさ殿も下店の叔母ぎさんおきよ殿共に塔のう様に夜を明かしたりと三日の晩には比の四人は自動車小屋下店の裏の川ふちに建ててありこれは久保沢の有志が出資して自動車を一台購入し川和の安田自動車店へ賃貸し其自動車の置場なり其片方に運転手の寝所に六畳の座敷を拵へありたればの座敷に寝て居たり其所へ余は見舞いに行きたり(下略)

被害の状況 単位 川尻村 湘南村 三沢村
人畜 1
行方不明
家屋 全焼又全潰 12 5
半焼又半潰 9 1 1
流失
床上浸水
床下浸水
21 6 1
大正12年9月 川尻・湘南・三沢各村別災害調査報告より
「天災は忘れた頃にやって来る」
 この地震の震源は相模湾北部。マグニチュードは7・9で相模湾北岸から三浦半島南部、房総半島南部にかけ1メートル以上も隆起しました。この地震によって茅ヶ崎市下町屋の小出川沿いでは液状化現象が起こり水田から往古の橋脚が出現、「旧相模川橋脚」と名づけられました。
 左図は震災後、各村が9月10日から17日にかけて被害の状況を津久井郡長に報告した数です。三沢村に死者が1名報告されていますが、実際は横浜市で地震に遭遇して死亡しました。鳥屋村でも山林が崩壊、家屋七戸が全滅16名が埋没し尊い命が奪われました。
 神奈川県内はもとより多くの犠牲者を出した関東大震災、語り次ぐ人々はだんだんと少なくなりまし
た。震災の話を親から聞いた。お祖父さんから聞いた。そうした貴重な体験を是非、次代へ語り継いで戴きたいと思います。家庭の中でも是非お話下さい。

参考 寺田寅彦著 「柿の種」 より、関東大震災後の人々の様子や自然の厳しさ、それに打ち勝つ、たくましさや弱さ等、著者独特の短文集で綴られています。特に10月19日、震源地に近い酒匂川域の泥流の跡を見た寅彦は「死骸の碩」と書き記し恐れました。



「柿の種」 寺田寅彦
 昭和16年6月 第3刷発行 小山書店



資料
明治・大正の頃の相原」より 相原保善会発行  平成8年12月発行
「相澤菊太郎 相澤日記大正編」  昭和47年9月発行
「関東大震災記録」   八木仁太郎著 八木薫さん所蔵

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